それはきっと、とても、ね


矢車草 6



ムームーは一人、昔のことを思い出していた。
確か高校生の時の、家庭科の授業だ。

「“恋愛”と“結婚”について定義しなさい」

クラスメイトが「顔と金」とか「自由と束縛」とか答える中で、彼女の答えは希望に満ちたものだった。

「恋愛は、楽しい時を共有すること。結婚は、一緒に幸せになること」

辛い時や苦しい時、そんな時すらも共有したいと思える人と結婚したい。
そして、共に頑張り幸せな家庭を築き上げたい。

数年後、それは現実となった。


■■■


フェリックスはふと、奇妙な感覚に襲われた。
視界がぼやけてきて、だんだんと目が開けられなくなる。

駄目だ、閉じてはいけない。
開けなければ……。

そんなことを考えられたのも一瞬で、そこからどうなったかはよく分からない。
気がついたら、ベットの上にいた。

頭と、右肩が痛い。
打ち身のようだ。

「大丈夫?」

だんだんとハッキリしてくる線は、紛れもなく妻のもの。
起き上がろうとすると止められ、再び横にさせられた。

「起きちゃ駄目。あなた、牧場に倒れてたのよ」

そう言って、キッチンからお粥を持ってきた。
丁度良いぐらいに冷めていたらしく、直接すくって、

「はい、あーん」

「『あーん』って…新婚夫婦でもないだろうに」

呆れつつもしっかり『あーん』をやってあげているところを見ると、まだまだラブラブなようだ。
結婚して30年も経とうかという時に。

フェリックスは違和感を感じていた。
妻の態度がおかしい。
落ちつきがないというか、なんというか。
妙にそわそわしていて、視線はふよふよと宙をさまよっている。

「なあ、バドッグさんに見てもらえるよう頼んでくれないか?」

少し探りを入れてみる。
案の定、ムームーがぴくりと反応した。

「もう、見てもらったわよ。過労だから安静にしてなさいって。……そうそう、飲み物とってくるわね」

明らかにおかしい。
悪い予感がする。

「待って」

ぱしっと腕 を掴む。
若い頃の瑞々しさはもはやそこには存在しないが、家事によるあかぎれの温かさといったらない。

「本当のこと、教えて」

教えるまで離さない。
そんな目で見つめ続ける。
絶えきれず目を逸らされても、ずっと。

倒れる一ヶ月程度前から、体の調子はおかしかったのだ。
夏風邪でも引いたのかとほおって置いたが、いっこうに治る気配がなかった。
第六感というのだろうか、頭の中で警告音が鳴り響いていた。
フェリックスの感は大抵――外れない。

「…分かった」

ムームーは迷った。
自分の口から告げていいものなのか。
医者の許可を取ってから、専門家にこの任を託すべきではないのか。

だが、それはただ自分が告げたくないというだけの言い訳ではないか。
もしもの事態が恐いだけではないのか。

出来ることなら妻として、自分で言いたい。
最後まで、一緒に。

……フェリックスなら、素人の私でもきっと大丈夫。

根拠のない確信だが、長年一緒に暮らしてきたのだ、 きっと大丈夫。

「重い病気ですって」

それでも抽象的なことしか言えない。
間髪入れずに訊ねられる。

「余命は?」

随分とまあ、直球で。

淡々としている夫に何を感じたのかは分からないが、絶えきれなくなったらしい。
ゆっくりと、抱きついた。

「…一ヶ月」

そうか、と一言呟いて、フェリックスは再び眠りについた。
ムームーのすすり泣く声が、家の扉から小さく洩れている。

この家も、もう、古い。


■■■


フェリックスの家にはたくさんの人が集まっていた。
谷の住民はもちろん、都会の親戚や知人もちらほらと。

夕方の5時、眠っていた彼はうっすらと起きた。
小さな声で震えながら。

「たぶん、これで最後だ」

固く握り締められた自分の手。

妻は意外と穏やかな表情をしていた。
これから寂しい思いをさせるかもしれないが、精一杯生きてほしい。
間違っても後を追うような馬鹿なまねをする女ではない。

思 い通りにならない体を必死に動かし、「頑張れ」のエールに手を握り返す。

娘の方は涙のあとで溢れかえっていた。
サラの後ろにはヒューが、寄り添うように。
…この子なら安心だ。
うちの娘を、やろう。

自分の心は意外な程に穏やかで。
静かに暖かく逝けることを、喜ばしい、と思った。

「ここで過ごせて、幸せだったよ。皆、ありがとう――」




瞼が、閉じられた。




『ありがとう』

嗚咽とともにあちらこちらから聞こえてくるのは、フェリックスへの感謝の言葉。

あなたがいて、幸せだった。
嬉しいことも悲しいこともあったけれど。

いつまでも、大好きよ。


……ありがとう。



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言わなくてもご存知と思いますが、
私の最大の弱点は“最終回”なんですね。
最後の締めがなし崩し的になってしまうのです……。
一話完結ものなら良いのですが、
長編になればなるほど、最後の締めが甘くなってしまうのを
どうにかしたものです。



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