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傷ついたアキラの叫びを、夢に見て目を覚ます。 部屋に差し込む光はカーテンの隙間から、細く鋭利に。我が身に突き刺さっているように思われた。固く目を瞑り、痛みをこらえる。 ハルカが感じているのは、重い鎖のようなものだった。後悔をするということは、自分の行為を否定すると同時に、自分の想いを正しくないと認めることだ。それは激しい自己嫌悪を伴う。極論すれば、それは、自分という存在を拒絶すること、だからだ。 ここで重要なのは、ハルカは自身の主張を、間違っているとは考えていないことだ。それでも後悔するのは、アキラを傷つけたという事実。それから、アキラに嫌われたという現実。そのジレンマに板挟みになって、潰されてしまいそうだった。 好かれたいという欲のために意志を曲げなかったのは、我ながら立派だったと思う。だが、人として正しい行いをすることよりも、時に大切なこともあると思う。誰を大切にしたくて、誰に好かれたいのか――そういう想いを、感情を優先させること。 理屈で捻じ伏せるより、アキラにとって必要なのは支えだった。自分の欲だけでなく、相手の想いをも押さえつけて、なにか伝わったのだろうか? あの状態のアキラに、ハルカの意図したことなんて、伝わったのだろうか? ……伝わるわけがないと諦める自分がいる。 アキラは馬鹿じゃない。普段ならちゃんと、言葉の意味を噛み締めて、吟味して、理論立てて考えるはずだ。だがここ最近のアキラは、誰の目から見ても「通常」でないことは明らかで、一昨日、自分はそれにとどめを刺した。痛めつけて、きっと……泣かせた。心を、壊してしまったかもしれない。 被害者のような顔をして落ち込んでいるのは、加害者としてのそれよりも気楽で良い。自分は悪くない、いけないのは向こうだと、自分の痛みだけにどろどろと浸っているのはとても楽なのだ。誰に対しても言い訳をする必要がない。背後には全身を預けられる大きな壁がある。そんな約束された安心感。 ハルカの――加害者の心情は、相手を傷つけたという罪悪感が傍らに控えている分辛い。自分自身の方が正しいと思うゆえに、謝って流すことも出来ない。かといって、堂々と胸を張っていられるほど、強くない。 どんな正論も、理想も、「好きな人に嫌われた」という事実の前では、なんの意味も持たなかった。むしろ邪魔でしかない。ハルカはまだ、十代の女の子なのだ。 けれど、いつまでもこうしているわけにはいかないことも分かっていた。今日もポチエナたちのトレーニングを行わなくてはならないし、アキラが臥せっている分の調査もこなさなくてはならない。 心の中、言い聞かせる言葉は、呪詛のように。唱える度、黒いしみが体中に広がっていく。 ――私は、アキラを傷つけた。 目を閉じて、何度も何度も繰り返す。切り裂かれるような痛みに一筋、冬の雨。 ――だから、最後までちゃんと、やり遂げる義務がある。 自身を責めつけることは償いにならないと分かっていても、若干の救いはある。これから進むべき道は、明確だ。 涙を拭って立ち上がる。最後の思いは、声に出して。 「よしっ、今日も一日頑張りましょう!」 目つきの変わった若者がそこにいた。先程までとは違うその人は、演技なんてしていなかった。生来の強さだった。 ■■■ 「……アキラ君」 ハルカともめた、二日後の朝。再び研究所を訪れたアキラに、博士はまさに「目を奪われた」。口を閉じることを忘れ、息すら止まる。むろん、もめたことなど全く知らない。 「おはようございます。その……ご心配おかけしました。もう大丈夫です」 その言葉に、嘘が混じっていないかどうか、判断に苦しんだ。一見すれば、聖人のように清らかな表情をしている。だがあの、泥沼の底まで落ち込んだ人を見ているだけに、安易に断定することはためらわれた。 博士が返答に迷っていると、男ばかりの研究所内では際立つソプラノが聞こえてきた。元気良く他の研究員に挨拶をしてまわっている、自宅から出勤してきていた娘だった。目線で助けを求めると、心持ち顔を強張らせてやってくる。 「おはよう、アキラ」 笑いながらも、娘の周りの空気が張り詰めたことに、博士は気がつかない。一瞬の間が永遠に感じられ、ハルカの瞳が不安に揺れそうになった時。 「おはよう」 至極、いつも通り。生まれてから十数年繰り返されてきた、いつもの挨拶だった。表情にはほとんど出さなかったものの、ハルカはひとまず安心して、父親とアキラの双方を見ながら問う。 「アキラは今日から復帰するの?」 幼馴染で良かったと思うのは、こういう時だ。どんなことがあったとしても、「いつも通り」にするのが、慣れてしまっているだけとても簡単で。ひるんでいた心はすぐに消えて行き、何気ない言葉は考えなくとも量産される。 「いや、体力戻ってからにしようかと。今日は一つ……お前に聞きたいことがあって」 言い出しにくそうなアキラの表情に合点がいった。それは、そう、きっとハルカから言うべきだった、一番初めのこと。遠い昔のことのように思えてしまうけれど、とても大切なこと。 「ワカシャモの……遺体のこと?」 直球すぎる発言に硬直する。その緊張をほぐすよう、やんわりと告げる。 「うちの装置で保管してる。行こう」 父を仰げば、了承の合図に小さく頷かれた。筋肉が上手く機能していないアキラを連れ、ハルカは外へ。 二人が出て行くと、博士は重い足を引きずり、仰々しくため息をつきながら書類の山を掻き分け始めた。「時来たり」と判断したのであり、それは寂しさを伴う作業だった。埋もれていた一枚の紙切れを見つけ、インターネットを起動する。WEBページのアドレスを入力して、開いた先は――「タマムシ大学 入試情報要覧」。 アキラの家近くにあるオダマキ研究所は、主に書庫として、もしくは事務一般を行う時に利用されている。そこから少し離れたところに本当の研究所はあった。敷地面積は約二倍で、地下に一階、地上に二階の高さ。フィールドワークに秀でた研究機関とはいえ、薬品を使った科学実験は頻繁に行われている。 地下の一室を開くと、こぼれてきた冷気に鳥肌が立った。マイナス二十度に保たれている部屋だった。たくさんのガラスたちの中でアキラの目に飛び込んできたのは、隅に置かれたダンボール箱。ハルカに確認するまでもなく、足取りは迷いの欠片も感じさせなかった。 吸い寄せられて、見下ろす。手を伸ばし、ふたを掴む。たったそれだけ動作に、どれほどのエネルギーを使ったのだろうか。心臓は過剰労働を訴えている。 腕の筋肉に力を入れる。意を決し、一気に開く。 ――穏やかという言葉を具象化したら、こんな表情になるのだろうと思った。ひだまりのように柔らかくて、暖かい笑み。染められた赤は綺麗に落とされ、本来の美しい橙色が保たれている。新しいタオルの上で、安らかに。 手を伸ばす。体を引き上げ、腕に抱く。 ――とても、冷たい。 構わず、きつく抱く。頬をすり寄せ、想う。 「……俺さ、」 何も言わず、たたずんでいた人に向けて発した言葉だった。そしてそれ以上に、腕の中の暖かかった者に。 「『ワカシャモの願い』、分かった」 熱い想いは雫となり、凍った体を溶かしていく。温かな体は祈りとなる。未来を、その手に。 「俺、生きるよ。ちゃんと前向いて……ワカシャモのこと、忘れないで」 自分がワカシャモを愛したように、きっとワカシャモも好いていてくれた。唐突に辿りついたその結論に、確信に近いものを感じた。 開いた心の空白はどうしようもない。誰かに埋められるほど浅くはなく、気にせず生きていけるほど強くない。 それならば、覚えていよう。全てを思い出し、時には涙を流し、その先が見える“いつか”まで、共にいよう。“いつか”に辿りつけたなら、ワカシャモは永遠の存在となる。例え他の人に心を奪われたとしても、その空白が狭まることはあれど消え去ることはない。ワカシャモはこの世にただ一匹、確かにいたのだから。 土葬にする、と呟いた声で、ハルカはスコップを渡す。細く、強い声だった。 ■■■ ――そして季節は巡り、桜が咲いた。淡い色は風に吹かれ、旅立ちを祝福している。 アキラは妙に改まった格好で、博士と握手を交わす。 「しっかり学んできなさい。もしこっちに帰ってくるんだったら、ドクターとして歓迎するよ」 十分な教育施設が整っているとはいえないこの地域で、「オダマキ研究所」からは毎年一名、優秀な研究員を学歴不問で大学に送り込む枠が用意されている。そして今年の推薦入学者に選ばれたのがアキラであった。 時は思い出を風化させ、美しいものとして蓄積させる。 アキラの清潔な笑みがかりそめのものであったことに、博士は気がついていた。このままミシロで生きていくよりも、外の世界へ出たほうが、新しい空気を吸えるだろう。新鮮な大気は、アキラの闇を葬むりはしないでも、薄め、浄化させることはできるはず。 都会の大学の方が研究設備は良いに決まっている。二度とこの研究所には帰ってこないかもしれないと覚悟した上での決断だった。 研究所の仲間に別れを告げ、アキラは歩を進める。辿り着いた先には一人の少女がいた。未だに少し気まずい雰囲気がある。それを壊そうと明るく振舞う彼女を、尊敬の念を込めて見つめた。 「ちゃんとご飯食べなきゃ駄目よ! 物理もしっかり勉強してきてね!」 母親以上に口うるさい、いつもの言葉。アキラは傾くように微笑む。 「ああ、分かってるって」 すっと足を踏み出し、ハルカの前にかがみこんだ。手を合わせた先にはワカシャモの墓石がある。ハルカが供えたのだろう、小さな空色の花があった。 旅立ちの報告を終えた後、アキラは名を呼んだ。これまで何度となく呼び、きっとこれからも呼び続ける。いつかへ続く、天上の一声。 「ありがとう」 ワカシャモの墓がある。その正面にアキラがいる。その後ろにハルカがいる。ハルカにはアキラの背中が見えている。 誰も知らない顔がある。ハルカのこんな顔は、ワカシャモ以外誰も知りえない。感激と、憤りと、それから困惑。それら全てが混ざりあい、打ち消しあってせめぎあって、残ったものは愛しさだけ。 風のささやき、川のせせらぎ。太陽は光を放ち、木々が優しく呼応する。 ハルカの頬に、暖かいものが伝わる。心の中でごめんと呟いて、アキラに飛びついた。 「私……私ね。アキラ、大好き。――ありがとう。本当、ありがと……」 欲しいわけじゃない。ただどうしても伝えたくて、伝えなければ息もできないほどの、想いだった。人生の全てを捧げるほど、熱くて深い。種族は違えど、想いは寸分も異ならず、ワカシャモの気持ちが一番分かっているのは自分だとすら思う。 「ワカシャモも、アキラが大好きだったよ。アキラのお母さんだって、うちのお父さんだって、皆、そうだよ。だから、お願い……帰ってきて……」 もう、傍にいられるだけでも十分だと思った。話せて、触れられる距離にいる。それだけで幸せだと思える、そんな人に出会えた自分は、とんでもない幸せ者。 そっと撫でられる手に、ハルカは若干の違和感を覚えた。小さな頃よくあやしてくれた、優しい手であることに変わりはないのだけれど、厚みが加わっていた。人の経験の重さと、男の力強さと。 「大丈夫。ちゃんと、帰ってくるから。――行ってくるよ」 春風は、生命の香りを運んでくる。それを受け止める姿は、青年の立ち姿。見上げて微笑むと、最後の涙が零れ落ちた。 「いってらっしゃい」 空色の花は勿忘草。ワカシャモの願い。それに重なる願いもある。ただ誰かを、愛しただけ。尊い想いは心の中で生き続ける。 ――今日も良い天気だと言う人がいる。彼女は店の扉を開き、ゼニガメジョウロに水を汲む。花壇に向かい気がついた。そっと微笑み、おめでとうと指で触れる。 そして空を見上げた。雲が流れている。向かう先は東の方角。 再び花壇に向き直り、歌を口ずさみながら水をやる。この花の種を植えたあの子は、安らかに眠っているかしら。 春の芽吹きは脈々と連なる生の一端。 ――夢の続き。 【君がみた夢は今も輝いて】 完 << あとがき |
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