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「――おはよう」 アキラが目を覚ますと、そこは雪山ではなく見たことのある風景だった。自室の温かいベットに横たわっていて、隣には母の姿。安心した様に微笑んでいる。自分はどうやら助かったらしい、それなら……? 「ワカシャモは!?」 母から笑みが失せ陰が浮かぶ。アキラの視界は暗転し、再び落ちるは漆黒の闇。 表情の消えた息子を慰める術を、母は抱きしめることしか知らなかった。だが息子は大きくなりすぎており、しかも混乱の最中だ。いつのまにか骨ばった手で丁寧に確実に母を拒み、震える声で精一杯の主張をすることしか出来ない。 「ゴメン……出てって」 その声色は残酷な響きを持って母に突き刺さった。その響きを知っていた。夫が出ていった時の自分によく似ていた。 息子は最も大切な存在を失ったのだ。この世で、一番。 ――大好きな。大好きだった。 息子の部屋を静かに立ち去り、彼女はゆっくりとキッチンへ向かった。個室を持たない主婦にとって、なんとなく落ちつける場所の代表がそこだ。 ああは言われたものの、生き残ったからには食べなければ。おかゆでも作って持って行こう。 そう思い、戸棚に手を伸ばしたところで控えめに扉が叩かれた。ブザーというものはなく、昼間に鍵をかける習慣もない家柄だった。 「はーい。どうぞ」 少し高い声で応答すると、おずおずと現われたのは近所の娘さん。いつもの元気はなくしおれている。目は張れあがっており、ああこの子も仲良くしていたなと、その光景を思い浮かべて悲しくなった。 「あの……アキラは、目覚めましたか?」 「ええ、ついさっき。でも……」 消えた言葉の先は想像に任せるとする。言葉に出すには、現実は厳しかった。水を欠いた花のようになってしまっているハルカに、さらに辛いことを強いる自分は、酷い人だと思う。 「そうだ、ハルカちゃん」 栄養をつけるため野菜は多めに。一定の速度で紡がれる音に被さった声は、好奇心から来るものではない。 「いきさつを、教えてくれない? 昨日はそれどころじゃなかったから」 これから息子にどう接していくのか、その方針を決めるため。ハルカにとっても辛いのは重々承知していたが、崩壊しそうな我が子の方を最優先するのは普通の心情だ。 目の下に隈があっても、白目が赤く染まっていても、明確な眼光は常通り。きっぱりと言いきった。 「はい。そのために今日はそのために来たんです」 とても強い子だと、母は思った。 鍋を火にかけて一息ついたところで、二人はソファに腰掛け向かい合った。ふうっと息を吸いこみ、ハルカは事の成り行きを語り始める。 「私がアキラから援助の要請を受けたのが三日前です。それから急いで準備して旅立ったのが昨日でした」 アキラは徒歩だったのでそこに辿りつくまでに数日かかったが、ハルカは飛んで行ったためほんの二,三時間だった。 「現場についた時は……悲惨でした。辺り一面、雪が血でいっぱいで、グラエナが一匹倒れていて……その近くにワカシャモを抱きかかえたアキラがいたんです」 赤黒い雪に倒れたグラエナと、今にも死にそうな顔をしたトレーナー。そして――橙の毛が染まってしまったワカシャモ。 思い出すと胸が詰まる。目を背けたいのにまぶたに焼き付いたそれは離れない。時が経つとともに記憶は曖昧になり、自分の想像力によってさらに残酷なものへと変化し、それが正しい記録として認識されてしまう。 ぽろぽろとむせび泣くハルカに、そっとハンカチが手渡された。すんと音をならし、続ける。 「多分、一晩をその状態で過ごしたんだと思います。厚着してたから良いようなものの、あれでもし眠ったりなんかしてたら、皆、みんな……死んでました」 アキラまで死んじゃってたら、私、絶対その後まともに行動出来なかった! ハスブレロやキャモメの存在も忘れて、二人だけ連れてぼんやりミシロに戻るしか出来なかった……。 そんな叫びを弾丸のように発射してしまって、居た堪れなくなったのだろう。隣に移動してきた優しい手に、よく出来ましたと撫でられるのは気持ちが良かった。 アキラの母が決意したことは、「無駄死ににはさせない」こと――それだけだった。母だって、ワカシャモが好きだったのだ。ただ、自分以上に大好きだった人間がいるから、それを表に出すわけにはいかないだけで。この子まで自分を責めていたら、誰がこの先ワカシャモを生かしてあげられるのだろう。 「……とにかく、アキラを毛布で包んで、オオスバメに運ばせたんです。その時はまだ、かろうじて意識があったので」 「……そうだったの。アキラが気を失って転がり落ちてた時は何があったのかと思ったけど、きっと、ミシロに着いて力尽きたのね……。それで、ハルカちゃんは残って何をしてたの?」 「放置して帰るのも目覚めが悪いのでグラエナを埋葬して、アキラの手持ちがいなかったので捜しに行って、ついでにテントとかも全部回収してきました。それと……」 ハルカはハンカチを置き、ためらいがちにリュックを探り三つのボールを取り出した。開いてみればそこには、幼いポチエナ。 「多分、倒れていたグラエナの子供だと思います。すみかを他のグラエナに奪われたみたいで、さまよってたからとりあえずゲットしてきました」 その理由は言わずもがな。母親の死が誰のせいなのかは分かりきっていて、「自然は厳しいのよ!」とは切り捨てられなかった。そんな義務はないし、そもそもハルカは無関係なのだけれども。 アキラの母はふっと笑う。 「大変だったわね……お疲れさま。アキラのために、ありがとう」 凄いね、えらいね、なんて言葉は逆に気持ちが重くなる場合がある。無責任な評価でしかない時だ。なぜ頑張ったのかなんて知らない、結果だけの言葉。 別に誰かに誉められたくてやったことじゃない。ハルカは辛かった、苦しかった。楽しい作業じゃない。雪山でモンスターボールを探すのも、ワカシャモを殺したのだろうグラエナのお墓を作るのも、その子供を保護するのも、今話すのだって、死を確認させられる作業でしかない。それでも事後処理までこなしたのは、ハルカの正義感からくるものも、ないわけではないけれど、それよりも大きな――単純な。 辛さ苦しさを認めてくれる人がいれば、救われる。そうでなければ、いつか……壊れてしまう。 誰かのために無償で頑張るのは、尊い行為のように思えるが、それなりの代償が自分に圧し掛かるのだ。ワカシャモだって、もしかして、きっと……。 「――おばさん、アキラと会って良いですか? 聞かなきゃいけないことが、一つあるんです」 疑問の形を取っているものの、否と言わせない気迫があった。母は肯定の返事をし、おかゆを持っていくのを口実にしなさいと促した。 ■■■ アキラは虚ろな目でベットに起き上がった状態を保っていた。視線の先には自分の手が力なくあるものの、そこに意味があるはずもない。呼吸により微かに上下に動くだけで、意識のある人だとは思えない。 ただ、暗かった。世界が暗い。 なにを考えているわけでもない。ワカシャモが死んだという事実が分かってないわけじゃない。 頭の芯が動いていなくて目の前に世界がない。心臓の音が聞こえてくる事実から、この世の時間が過ぎていくのをぼんやりと感じていた。 強張った顔つきでハルカは扉をノックする。中からの返事はないがそれは予想済みで、構わずドアノブを回した。 「アキラ」 呼びかけて、わずかに動いた彼の元へ歩んでいく。相変わらず下を向いているアキラの視界に潜り込めば、己の心臓が潰れていくのを感じただけ。 告げるべきか、否か。 アキラの心情をおもんぱかったならその答えは明らかで、ハルカは唾を飲み込んだ。別に今言わなくても良いんじゃないだろうか。もっと落ち着いてからでも――そうだよ、もう少しならもつんだし……。 視線をうろうろと彷徨わせても、目の前の人はなんの反応も示さない。その瞳に写るのは底なしの地獄。ハルカの姿なんて欠片も感じ取っていない。目が、死んでいるのだ。 こんなのは、こんな人は、アキラじゃない……! 訪問の目的も、決意も、砕かれた。 すっと立ち上がり、ゆっくりと頭を包み込む。慰めるためというよりは、自分自身、一人で立っているのが辛いのだ。そっと、そっと、耳元で囁く。 「良い方法、教えてあげる」 男性の短い髪が頬をくすぐる。こんなことをするのは何年ぶりだろう。 「ワカシャモのことを、いっぱい思い出すの」 一度、大きく脈を打ったのが伝わってきた。構わず、続ける。 「楽しいことも悲しいことも、いっぱいいっぱい思い出して、そうして――」 その後は比較的速いものの、安定した鼓動のリズム。反比例するかのように自身のそれは不規則だ。発する言の葉に、願いを。 「――泣くの」 心でなく、耳から聞こえた音は脳に響いた。 昨日あれだけ泣いたのに、どうして涙は枯れないのか。 その答えを知っていた。けれどきっと、今のアキラは知らない。知らないなら涙を流せば良い。 そうすれば、やがて、新しい世界が見えてくる。 ハルカはそう信じていた。いっこうに泣く気配も見せないアキラを離して、これ以上言うことはないと退散する。軽くなったアキラの頭には、蛍光灯の光が反射している。 ■■■ ハルカが去って、事務用デスクに放置されているおかゆに気がついた。だるい体を引きずって立ち上がり、なんとかイスに腰掛ける。食べたくないが、残せば母は心配するだろうし、そのうちお腹も空いてくるだろう。それぐらいの判断力は回復していたが、味はよく分からない。そもそも美味しかろうが美味しくなかろうがそんなことはどうでも良かった。 無言で食事を続けていると、白い米粒が雪のように見えてくる。すぐに消えてしまいそうな、なんとかまだ残っている言葉を反芻すれば、なにやら思い返して泣けば良いらしい。助言に抵抗する気力もなくて、アキラはぼんやりと記憶を辿る。 ――小さなアチャモの脅えた姿、少し大きくなったアチャモの満面の笑顔。 断片的に、写真のように、一部分だけがくっきりと現れる。 ――立派になったアチャモの仰天顔、進化したワカシャモの豪快なステップ。 心になんの動揺もなく、ゆっくりと永遠の時が流れていた。 ――そして。 「……っ!」 小さな悲鳴は切り替えのきっかけ。こぼれたおかゆに全力で神経を注ぐ。その先は思い出したくないし、思い出せなかった。少しだけ見えたのは赤の色。 タオルを取りに洗面所へ行けば、大きな鏡に自分の顔が映っている。アイドルじゃあるまいし、鏡を覗き込む習慣なんてないが、アキラは目を逸らせなかった。 光のあまり行き届かない薄闇の中、涙の跡も予兆すらもなかった。記憶の中の自分と違う人間がそこにいるだけ。 無意識に手を触れても、銀のそれにはありのまましか映らない。 『お前は、だれ?』 心の中で問うた答えは、目の前の彼にももはや分からない。分からないことすら理解できず、耐えきれないでそのままその場を去るのがやっとだった。夢で見た少年の面影は見当たらなかった。 人の死んだ場面を、その直後に思い出すのは痛いです。 |
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