君がみた夢は今も輝いて  第四話 「lovers」



 彼女は、ないていた。
 黒く、深く、続く闇がこのまま続いてしまえば良いのに。朝が来れば、否応なく視界は開ける。繊細に編みこまれた葉の脈のひとすじまでも、見えてしまう。
 今ですら、月の光が眩しくて、よく見える。音も立てず降る雪に照らされて、なおのこと明るい夜だった。どうして雪雲に、月が隠れてしまわないの!
 彼女は再びなく、呼ぶ。仲間の返事が返って来る。
 寒さに耐えられなくて、震えが止まらなくて、早く誰かに会いたいのに。でも、本当は来て欲しくなかった。永遠にこの時を動かさないで欲しかった。
 うっすらと見えるのは数メートル先で起こった自然の脅威。夫の姿は捉えられず、だが自慢の嗅覚をもってすると微かに香った。確かにいるのだ。あの土砂の中に、彼女の――、
 複数の鳴き声が響いた。
 彼女らの大切な人は、崖が崩れたその下に。
 ああ、来ないで欲しかった。彼女は泣く。せめて最後ぐらい、彼女だけの夫となって欲しかった。
 押し殺した泣き声で、彼女らの夜は明けていく。雪は積もるばかり。寒さは増すばかり。


■■■


 ほう、と感嘆の声を一つ。
「こりゃあまた……見事」
 日が昇り、アキラがテントから顔を出すと、平坦な白い絨毯が広がっていた。朝型のポケモンたちも寒さで活動を停止しているのだろうか、少しも荒らされていなくて美しい。少し溶けかけたような表面部分が日を反射してよく光っている。
「ワカシャモ、出て来いよ」
 寒い場所で野宿をする時はワカシャモの添い寝が必須だった。毛布を持ち運ぶのはかさ張るし、一晩中焚き火をするのは複数人でないと難しい。下手したらすぐに凍死してしまう、雪山ならなおさらだ。
 そんなわけで、一晩を半ば抱き枕状態で過ごしたワカシャモの瞼はとろんとしていた。慕っている人に抱き締められていたからよく眠れなかったわけではない。慣れとは恐ろしいもので、そんな感情はもうとっくに過去のものだった。ただ、無理な姿勢の連続だったので、寝違えただけ。
 しかれど文句の一つ言わず、素直に従い出て行くところは、称賛すべし。
「ほらっ……! 積雪量はそうでもないけど、なかなか溶け難そうじゃないか?」
 数年前に失ったはずの幼心が完全復活した様子。雪に倒れこんで自分の形を作ってみたり、雪玉を遠くまで飛ばしてみたりしている主人を、ワカシャモはぼうっと眺めていた。
 分厚い辞書を引いたり、論文を読んだりしている時。フィールドワークに出て統計を取ったり、薬品をいじったりしている時。そして今、無心に遊んでいるこの時。
 どれも好きな事だろうに、どうして全て違う表情をしているのか。ハスブレロがいたら教えてもらえたのだろうけれど、あいにくボールの中で凍えかけているのでワカシャモは一人考える。
『調査の基本は、まず観察なんだ』
 数年前、博士より承った言葉を思い出し、じっとアキラを見つめる。
 生き生きしていた顔が、落ちついた瞬間、悟った。全体的な表情は違うけれど、目つきが同じだった。瞳の奥から伝わってくるものが等しかった。決意のあの日と寸分の差異もない、ワカシャモが好きになった視線だった。


■■■


 影が少し短くなってきた頃、アキラは行動を開始した。夕方になればまた雪が降る可能性もある。なるべく短時間で、一通りの視まわりを済ませたい。
 木の状態だとか、雪に残された足跡だとかを丹念に見てまわる。比較的活動しているポケモンは少ないようだ。また食料はほとんど得られそうになく、暫くのカンパン生活を覚悟する。

 挙動不審にキョロキョロしながら、歩き回ること二時間近く。小さな洞穴を見つけ立ち止まった。周りに足跡らしきものはなく、いかにも、といった雰囲気が漂っている。
 少し近付く。もう一度辺りを確認するが、特に何も見当たらない。これは、本日の寝床に最適かもしれない。テントは通気性が抜群なのだ。
 もう少し近付く。アキラは肩を落とした。冬眠のための寝床にしているのか、中から音が少しだけ。寝息のような、呻き声のような。
 目的を本来の調査に切り替え、もう少し、ギリギリのところまで。そっと覗くと、小さなポチエナたちが寄り添って眠っていた。ざっと二十匹はいるだろうか。呻き声は下敷きにされた子のものだった。親は留守らしく、見当たらない。
 一通り眺めると、左端で寝ている集団が他のポチエナたちとは明らかに異なっていた。確か、グラエナは一夫多妻制だったはず。きっと同じ母親から生まれたのだろう。手入れが行き届いている証拠に、ふわふわで柔らかそう。ダークグレーの毛色は滑らかで、黒との対比が明確だった。ひょっとしたら、コンテスト経験のあるグラエナが逃がされて、この山に住みついているのかもしれない。
 すっ……と、一次審査で歩み出るグラエナの姿を想像し、アキラは少し興奮する。艶のある毛並は思わず触れたくなるほどで、細身の体によく流れている。恐ろしさにより他を魅了する悪タイプ特有の力と、凛々しさを兼ね備えた堂々たる姿のギャップは、多くの観客を惹きつけてやまない。
 バトルよりはコンテスト派のアキラ君。実は優勝経験が二回あったりして、八個のうち一つしか集められなかったバッジを思い出し、苦笑する。自分はとことん父の意志に反する性質のようだ。
 すやすやと眠るポチエナをしっかり目に焼き付けて、くるりとUターン。これ以上近付くと起こしてしまうかもしれない。
 ――ここは一端退却して、親の方を捜そうか。
 そう考えたのも一刹那。アキラの全身に緊張が走る。
 雪を踏みしめる、大量の足音。
 右手から――来た! 先頭に立つのは雪と日に照らされた、美しいグラエナ。少し遅れてその仲間と思しき数匹のグラエナも走ってくる。
 間違いなく、視線はアキラを捕らえている。子供を盗られると思ったのだろう、まとうオーラが半端ではない。殺気がはっきりと伝わって来た。手持ちポケモンによる説得にはとても応じてくれそうになく、アキラはすぐに駆け出す。
「キャモメ、飛べ!」
 ボールから出し、森に入った瞬間浮上する。速さで敵う相手ではないし、姿を隠したところで匂いは隠せない。戦うには数が多すぎる上、死に物狂いになっている今対決して勝てる可能性は皆無。それならば、相手の怒りが収まるまでやり過ごす他はない。決して届かないところで、刺激せず。
 先にある程度見まわっておいて良かった。アキラはこの辺り一帯で最も高い木の枝に降り立ち、下を見る。唸るグラエナが七匹、鋭く視線を向けていた。一先ず助かったものの、鼓動は止まず、高い。

 長い間、枝に腰掛けていた。もう何時間になるだろうか。膠着状態が続いている。
 通常、何時間も集中力を持続させるのは難しい。最初の三十分ぐらいで徐々に高まって行き、一時間半程度で切れるのが一般的だった。それは野生とはいえグラエナたちにしても同じで、当初の張り詰めた空気は緩みつつある。
 だが、どこの世界にも例外はいるものらしい。先頭に立つ、最も木に近いところに陣取っているグラエナは、殺気こそ薄まったものの強烈なオーラを纏っていた。目の輝きは爛々と、足を軽く曲げ、今にも飛びかかってきそうな体制を保っている。
 これは当分地上に出会えそうもない。アキラが内心で溜め息をついた瞬間、それを感じ取ったのだろうか。先頭のグラエナが仲間に何かを話し始めた。数十秒後、二匹のグラエナが――退散して行く。巣に戻るのだろう、心なしか表情が明るい。
 こんな時こそ、研究者としての血は騒ぎ出す。自分の命よりも対象物の現象に興味がいってしまう。非情な性分だと笑ったのは誰だったか。
 先頭のグラエナはおそらく、あの子供たちの母親なのだろう。先ほど想像した姿そのままの美しさを持つ。レベルもそれなりに高そうだ。
 「彼女が、メスグラエナたちのリーダー。第一妃」……いや、別にお妃様じゃないだろうけど。アキラは注釈を加えつつそう予測し、一つの疑問を持つ。
 ――夫は、どこだ?
 従えている中にいるとは考えにくい。グラエナは基本的に慕っている相手に服従するのだ。一夫多妻制である限り、妻よりも夫の方に権限があると考えて良いだろう。これだけの数の妻を持ち、しかも彼女をも妻にめとるほどだから、そうとう優れた夫に違いない。
 先ほど去ったグラエナたちが夫を呼びに行った可能性は低い。咆えれば済むことであるし、事が起こってから時間が経ちすぎている。
 となると……もしかして。
 嫌な可能性が頭をかすめる。状況としては揃っているのだ。昨夜の崖崩れと、全員が巣を空けていたという異常事態と。
 あんなに小さい子がたくさんいるのに、これからどうするのだろうか。核を失った細胞は死の運命を辿るしかないのだ。少なくとも、メスグラエナたちの離散は避けられないだろう。そうなれば餌の取り合いや住処を巡る争いが起こるかもしれない。リーダー格の彼女によほどの求心力があれば別だが、自分より勝っている相手の言うことを、果たして夫を失った今素直に聞くだろうか。嫉妬やら悲しみやらが先に立って、早まった行動を起こしはしないだろうか。
 アキラの心配をよそに、彼女の指示でさらに四匹がその場を立ち去る。残されたのは、一匹と一人のみだった。
 彼女を説得出来れば、どうにかなる。アキラはそう確信し、彼女との交渉を試みることにした。
 まずは相手の気持ちを、読み取ることだ。
 木を降りる。飛びかかってこられないギリギリのところまで、出来るだけ心を通わせられるように。
 アキラと彼女は見つめ合う。ありったけの労わりと、無抵抗の意志を込めてじっと見る。彼女は相変わらず目を光らせているが、警戒というよりは観察に近くなって来ていた。
 これは、いける! 交渉の橋渡しのためキャモメのモンスターボールを掴んだ。

 そして、視界が反転する。

 訳の分からぬまま木の枝にしがみつき、しかし落下は避けられない。なんとか足からの着地に成功し、態勢の調わぬまま走りだす。
 すかさずキャモメを出そうとするが、手は宙をかいた。……そうだった、しまった! 落ちた衝撃で飛ばしてしまったようで、丁度彼女の足元に落ちている。
 去り際に上を見上げると、大きく揺れている木があった。比較的高い位置に先程の去った者のうち二匹のグラエナが乗っていて、降りられる機会を待っている様子。すぐ近くは程よい高さの崖となっており、ここから死角となった場所ではい上がり飛び乗ってきたことが予想される。なんという速さと勇気! 他の二匹もいなくなったのは、ただアキラを油断させるためだったらしく、草むらから飛び出してきた。
 しかし今は感心している場合ではない、もう少しで上手くいきそうだったのに、これはそうとうやばい状況だ。目の前には、再び集結した五匹のグラエナ、後ろには崖、手持ちは二匹。
 崖下には、先日の即席ロープが放置されていた。

 先程説得に応じてくれそうだった彼女は、仲間の乱入により再び気分が高揚してきた様子。昔から、女と子供に感情を廃せよというのは無理な相談なのだ。
 もう駄目だ。戦うしかない。
 ギュっとボールを握る。グラエナ達が、動いた。
「ハスブレロ、フラッシュ!」
 ボールから出ると同時に放たれた。雪に反射して威力が増したそれは、グラエナの視覚を少し衰えさせる。
 そうはいっても、たかが一発打ったぐらいで攻撃は外れない。強力な光でひるんだ者もいるが、雪を踏み締め構わず突っ込んでくるのも一匹。
 ハスブレロ目掛けて、衝突する寸前。
「いわくだき!」
 頭にクリーンヒットして、グラエナは倒れた。高く投げられたボールから出て、上空から降って来たワカシャモによって、訳も分からぬまま。
 しかし、いくら重力により威力が増したとしても、相性と自身のタイプで相乗効果が起こったとしても、「ワカシャモのいわくだき」で一発KO出来るとは考えていなかった。そんなに相手のレベルは高くないのだろう。勝てないまでも、隙を見てキャモメを取りに行くのは可能かもしれない。
 グラエナ達は、意外と強いのかもしれないトレーナーを見てうかつに動けなくなっている。睨みあいが続けば、戦術を考える良い時間稼ぎになると思われた時だ。
 一匹の、美しいグラエナが歩み出た。
 さしで勝負しろと言うのか。その意図が分からない。万が一彼女が負けたとして、他のグラエナに勝ち目があるとは考えていないだろう。それならば、他のグラエナ達と戦わせて体力を削ったところで自らが進み出た方が確実ではないか。
「悪いけど、俺は二匹で戦わせてもらうよ」
 その言葉を理解しているのかいないのか、それは分からないけれども、彼女は指示を出した。彼女を含め三匹を残して、帰っていく。
 もしや、死ぬ気か。目の輝きが増している、怖いほどに。
 今帰って行ったのは、子供達を避難させるため。見つかりにくい場所へ、一刻も早く。自分がいなくなっても、守れるように……?
 自分で一匹――おそらくワカシャモ――を倒して、ハスブレロを残りの二匹で、といったところか。アキラ一人なら無力であるし、ほっておいてものたれ死ぬと。
 そう、考えたのだろうか、このグラエナは。
 アキラは背筋を寒くする。その想像は、あまりにも悲しすぎた。

 風が吹いた、示し合わせていたわけではない。四つの命は行動を開始した。
「ハスブレロ、フラッシュ! ワカシャモ、ひのこ!」
 のろのろの攻撃をグラエナはさっと避け、ハスブレロに「いばる」。相手を混乱状態に陥れるが、攻撃力を上げてしまう技だ。フラッシュが厄介だったのか。
 アキラは小さく舌打ちをし、大して期待もせずもう一度フラッシュを命じる。ワカシャモに放ってくれればまだ良かったのに! ハスブレロは特殊技とフラッシュしか覚えていないのだ。
 避けられたひのこにより一部の雪が溶けた。いかんせん、雪のあるところは足場が悪い。グラエナは一端そこまで下がり、再び飛びかかる。
「いわくだき!」
 ワカシャモが、突っ込むも同然にグラエナに猛進する。グラエナの体当たりと合い打ちすると思われたが、
 ずれた。
 ワカシャモはズボッと雪に着地、グラエナは見向きもせず前へ。視線は、まっすぐにアキラを捕らえている。
 ――そうか、グラエナはこれを狙ってたのか!
 アキラを、殺す。そうすればトレーナーを失った二匹は動揺して……一対一なら簡単に倒せる。
 逃げなければ逃げなければ!
 だが、なかなかどうして、体が動かない……! 光る瞳に刺されたように、時間が止まったと錯覚してしまいたい。
 もう、駄目だ!
 大きく、心臓が脈を打つ。グラエナの目から光が零れ、雪に染みていった。全身に鳥肌が立ち、それでもなお動けない。くらくらする。
 開かれた口が見える。牙は鋭く、間違いなく砕かれる。
 ――黒い艶のある毛が、不自然になびいた。
「……!」
 鈍い音、渾身の力を込めた、命の音。グラエナが目の前から消えて行く瞬間を、はっきりと見た。まっすぐ向かって来ていた体が、少し方向をずらして、アキラの横を。雪の中から飛び上がった赤い毛が、グラエナにぶつかり――、
「ワカシャモ!」
 赤と黒と、一緒になって、崖の下に、落ちて行った。

 ――雪だ、そうだ、雪が降っている!
 かすめた思いは一刹那。響いた音で掻き消される。この高さでクッションになるほど深くは積もっていなかった。
 アキラは落下ギリギリまで駆け寄り、地に手をつきしゃがみこむ。リーダーを欠いた他のグラエナたちはうろたえ、ハスブレロは静止しようとするが間に合わない。
 白く染まった山肌を素手で掴み、おぼつかない足場にくらいつく。ゆっくりゆっくり、気持ちだけ焦って降りてゆく。
 鼓動が速い。追いかけられた時よりも、今までのいつよりも、速くて怖くてたまらない。この世の音の全ては己の体から発せられるもので、この世を支配するのは焦燥感のみ。目の前にあるのは灰色の世界で、確かに見えているはずの雪の白さはグレイをわずかに薄くするだけ。
 奇跡的に落下することなく崖下に辿りつき、くるりと振り返った。大丈夫かと声をかけようとしたところで、アキラの視界はようやく鮮明さを取り戻したのだ。
 しろいあかいくろい。
 雪が、雪が、溶けている。命の発する熱で、その血潮で。
 グラエナとワカシャモが重なる様に倒れていて、お互いでお互いを染め上げる。赤いはずの血は黒さを持ち、白銀の雪を侵(おか)し続ける。
 ふらふらと近寄りワカシャモを抱き上げると、予想を越える重さが精神にのしかかった。
「こんなに血が抜けてるのに、なんで……!」
 最後まで言いきることも出来ない。問いの答えは自分の中にあるが、気がつかないふりをして頭を大きく振る。呼びかけても返事はなく、ただぐったりと意識がない。
 だんだんと冷めていくのが凍えきった手の平から伝わる。自覚した時心臓が跳ねた。

 アキラの脳裏に浮かぶのは、赤と白。白を染める赤。それは確か小さな頃、転んだある日の微かな記憶。
 冬の寒い日、雪の思い出。
 痛かった。今も辛い。苦しい。
 だれか、たすけて。



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勝手に一夫多妻制です。
初めて誰かが死んでしまうシーンを書いたのですが……難しいですね。
扱ってるものが大きすぎて、妙な圧力を感じます。



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