こたえはひとつ 後編



 ああ。情けない。なんて無様なんだろう。自己嫌悪と羞恥の感情がないまぜになってわたしに襲いかかってくる。無我夢中で走る途中、ランちゃんとすれ違った。彼女の腕にはいつものように弁当の包みが抱えられている。
 「クレアさん!こんにちは」
 彼女の三つ編みが楽しげに揺れていた。オレンジ色の残像が鮮やかに、まぶしく目の奥にこびりつく。心優しくて可愛い人。
 それに引き換え、わたしの抱く感情の醜いこと。
 返事もせずに、彼女の横を駆け抜けた。

 もう何もかもどうでもいい。どこかひとりになれる所。誰もいない所に行きたい。そんな思いを胸に、ひたすら走り続けた。

 いつしかわたしは、マザーズヒルの頂上に立っていた。

 汗ばんだ肌に冷たい風が心地いい。息を深く吸い込むと、肺の中に新鮮な空気がたっぷりと流れこんできた。わたしの足元には、様々な種類の野草が繁っている。その中でも目立つのはピンクキャットの華やかな桜色。けれどわたしの目は、そこに混じってぽつぽつと咲く紫に吸い寄せられた。お辞儀をするように、身を揺らしているのは、茎に小さな袋をいくつもぶら下げたホタルブクロだ。わたしはこの花が好きだった。

 いつかの夜、ここでクリフと偶然に会った。あの時の自分の行動には笑ってしまう。わたしは、崖っぷちに佇む彼を見て身投げと勘違いし、クリフの腰に必死でしがみついたのだ。いま思い出しても、耳たぶが熱くなる。

 ―待って!早まらないでっっ

 ―……え?早まるって何が?

 呆気に取られたクリフの顔。彼は死のうとしていたわけではなく、この町に根を降ろそうかどうか迷っていたのだ。  

 ―僕、決めたよ。この町に永住することにする。
  仕事も見つかったしそれに……
 
 ―それに?

 ビロードのような漆黒の夜空。そこに散りばめられた銀の星々が美しかった。降るような星をバックに、彼はやわらかく微笑んだ。人差し指を唇にあてる。

 ―内緒。今はまだ教えてあげない 
 
 あの夜からクリフはどんどん明るくなっていった。町の人とも普通に喋れるようになったし、毎日、楽しそうにワイナリーに通っている。
 クリフはどう思っているか分からないけれど、あの夜の出来事はわたしにとっては大切な思い出のひとつだ。

 わたしは彼を失うことになるのだろうか。
 それとも――――――?

 力が抜けてぺったりと地面に座り込む。しばらく膝を抱えたままぼんやりしていた。それからどれぐらいの時間が経ったのか。
 中天にあった太陽が西寄りになった頃、背後に人の気配を感じた。でもわたしは振り向かなかった。草を踏む音と荒い息遣いがどんどん近付いてくるのを、背中越しに聞いているだけだった。

 「僕がどれだけ君のことを心配したか分かる?」

 青年は額からしたたり落ちた汗をぐいっとぬぐうと、いつになく険しい声で言った。わたしは地面に目を据えたまま、何も答えなかった。

 「どうして急に逃げ出したりするのさ」
 「………ランちゃんはどうしたの?」
 
 マザーズヒルに向かう途中、彼女とすれ違ったことを思い出して尋ねた。クリフは黙ったまま、鋭い瞳でこちらを見下ろしている。
 だしぬけにわたしのすぐ隣に乱暴に腰をおろした。ぎくっとなって横に逃げようとしたけれど、腕をつかまれてしまう。そのまま彼の胸に抱き寄せられていた。
 「ちょっ……!?」
 驚いて身をよじるわたしの身体をぎゅっと抱き締めて、
 「もう逃がさないよ」
 クリフはわたしの耳にささやいた。
 「ランちゃんからのお弁当は……どうしたの?」
 再び訊くわたし。クリフは意地悪く笑った。
 「食べたよ、もちろん。とっても美味しかった」
 「……………」
 わたしはショックのあまり、どうにかなりそうだった。鼻の奥がつんとして、視界がぼやける。泣いているのを彼に気付かれまいとして、嗚咽をこらえていたのだけど、つい大きくしゃくりあげてしまった。
 クリフは驚いてわたしの顔を覗き込む。
 「ごめんっ。泣かせるつもりはなかったんだ。クレアさんが僕の気持ちを全然分かってくれてないのが悔しくて、ついつい意地悪を言っちゃったんだ」
 彼の手がわたしの涙を優しくぬぐう。勢いがついて泣き止めなくなってしまったわたしを見て、クリフはおろおろと呟いた。
 「ねぇ。お願いだから泣き止んでよ。僕、困っちゃうよ」
 その様子があまりにも情けないので、わたしは涙を流しつつも笑ってしまった。
 「変な人ね。クリフが困ることはないでしょう」
 「困るよ。だって、僕が泣かせたんだから」
 彼はわたしの頬を両手で優しく包むと、 
 「お弁当なんて食べてる余裕なかったよ。君のことで頭がいっぱいで」
 切なげな瞳でこちらを見つめた。そのまま彼の顔がゆっくりと近付いてくる。次の瞬間、唇と唇が重なっていた。

 「僕を置いていかないで。ずっとそばに居てよ」
 彼が辛そうに呟く。うなだれたクリフの頭を今度はわたしが抱き締めた。
 「不安にさせてごめん」
 「クレアさんのことを思うと、胸がどきどきして苦しくなる。こんなの初めてなんだ。母さんにも妹にもランちゃんにも感じたことのない気持ち」
 彼はあどけない表情でわたしを見上げる。おさなごのような彼が愛しくてたまらない。
 わたしはクリフのやわらかい茶髪に接吻(くぢづけ)する。
 震え声で尋ねた。
 「それじゃあ…クリフが心に決めた人っていうのは………」

 「クレア」

 胸に沁み入るような彼の呼びかけ。
 「答えはいつだってひとつだよ。君でなくていったい誰だって言うの?」
 クリフはささやくようにそう告げると、わたしを得がたい宝のごとくそっと両腕にくるんだ。
 彼の手がわたしの髪を優しく梳く。その感触が心地よくてわたしは彼の肩に頭をもたせかけると目を閉じる。

 クレア。僕の大好きなクレア

 クリフがわたしを呼ぶ。その慈しむような響きに胸が熱くなった。彼の息が耳にこそばゆくて、わたしは喉の奥で笑う。

 瞳を開けると、彼の肩越しに咲いたホタルブクロが、先ほどと変わらぬ姿で揺れていた。



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