再スタートはルージュの味で・1



 昼休み。給食が終わり、午後の授業に向けてほっと一息つく時間。校庭や体育館へ遊びに行く者、図書室で静かに過ごす者、教室で友達とお喋りに花を咲かせる者、様々である。
 しかし、どこにでも例外はいるもの。楽しく過ごせない者もいるのである。
 神尾アキラはまさしくその一人であった。

「早く写しちゃって。ていうかさ、宿題って家でやってくるものだよね。こんな風に学校でやるものじゃないよね。しかも、人のを写すなんてさ。全然宿題の意味ないじゃん」
「うるせー」
「ふーん……もうこれいらないんだね?」
「わっ、待て! 俺が悪かった」
 神尾は数学のプリントを持って立ち上がろうとした伊武の腕にがしっとしがみついた。
 宿題の提出は五時間目。昼休み中に写し終わらなければならない。
「しょうがないな」
 伊武は素直にプリントから手を離した。神尾は慌てて残りを写し始めた。残りは半分といったところだ。
 一心不乱に数式を写している神尾を見ているのにも飽きて(情けないことに珍しいものでもないので)、伊武は神尾のバッグを開けた。
「雑誌読ませて」
「ああ」
 今日神尾から借りることになっていたテニス雑誌を取り出そうとして、伊武はそれに気付いた。
 横長で、少し細めの白い封筒。
 それには見覚えがあった。ついでに言うと、中身も知っていた。
 雑誌と一緒にその封筒も取り出し、神尾の目の前にひらひらとさせた。神尾の動きがぴくっと止まる。
「なんで持ち歩いてるの? もしかして、まだ誘ってないとか?」
「…………」
 沈黙は肯定。
 伊武は無表情のまま、わずかに目を細めた。
「確か、もう一週間以上経ってるよね。電話番号知ってるんだよね。もう何回も柚木と電話で話してるよね。それで一体何やってるわけ。遅すぎ。とろすぎ。のろま。それでスピードエース名乗ってるのはどうかと思うけど」
「深司、てめえ……」
 容赦なくぼやく伊武。痛いところを突かれ、ぼやきに慣れている神尾も怒りがふつふつと湧き上がってきた。
 しかし、それを吐き出す前に、別の声に遮られた。どこからともなく現れた男子テニス部二年生の面々である。
「なんだ、まだ誘ってなかったのかよ、アキラ」
「マジかよー。それ最初に見たのいつだ?」
「先週? いやもっと前か?」
「小心者」
「深司……そこまで言わなくても」
「甘いぞ、森。ここは男ならびしっと決めるところだ」
「いや、アキラなら仕方がないかと」
「それも結構酷くないか? まあ事実だけど」
 口々にグサグサと刺さるようなことを言う。要約すると「さっさと誘え。情けない」ということだ。自分でも自覚していることだけに、言葉が身にしみる。それが一分続いたところで、とうとう神尾がキレた。
「今すぐ、誘ってくる! それで文句ねーだろ!」
 封筒を奪い取り、携帯電話を持って教室を飛び出した。



 屋上へ続く階段に座り(屋上は立入禁止だから生徒はあまり来ない)、神尾は携帯を開いては閉じ、閉じては開いた。まだ一度も呼び出し音は奏でていない。
「これが初めてなら苦労しねえよ」
 携帯に向かって一人呟く。
『悪いけど』
 電話の向こうで少しのためらいの後、そんな返事が聞こえてきたのは、関東大会が始まる数日前だった。
 二人で会うのは、今回も断られるかもしれない。
 不安が指を鈍らせる。
 しかし、このままでは中途半端なままだ。
 ――柑のことが好きなんだろう?
 きつく携帯を握り締め、自分に問いかけ気持ちを奮い立たせる。
 変えたいなら自分から動かなければならない。
 一度や二度の失敗でくじけるなんてらしくない。
「よし」
 気持ちの波が一番浮上した時、やっと神尾は柑の番号を呼び出した。
 鳴り響く予鈴は全く耳に入っていなかった。



 時間を少し戻して神尾が教室を出たばかりの時、焚きつけた男テニの面々はというと……。
「やっとまとまりそうだな」
「あいつらは本当に世話がやけるぜ」
「まったくだ」
「まさか、もう大丈夫だよな?」
「さあね。俺はもう知らない。後は勝手にしろって感じ」
「なあ……」
「ん?」
「これ、どうする?」
 石田が指差したのは、写しかけのプリントである。
「まあ、いいんじゃない。一回くらい怒られるのが増えてもさ。神野先生なんだし、部活停止なんかにはしないでしょ」
 橘さんに伝わってランニングは増えるかもしれないけどねとあっさり言って、伊武は自分のプリントを持っていこうとした。それを他の皆が止める。
「一応予鈴鳴るまで置いとけよ。戻ってくるかもしれないし」
「そうそう」
「……皆甘いよなぁ」
 結局プリントはそのまま神尾の机の上に置かれた。

 しかし、神尾が戻ってきたのは予鈴どころか本鈴の後。もちろんプリントを写す暇はなく、神野先生からはそれほど説教はされなかったが、放課後橘からランニング十周追加が申し渡されたのだった。



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